子どもの「みとり」を阻む、3つの偏り

先生界隈でよくつかわれる「みとり」。
「みとり」とは、学校生活において、授業中から友達関係まで、その「子」をどのように捉えているのかを表現するときに使われます。
・社会の授業で「〇〇」という発言をしたのは、その「子」が「◇◇」という経験をしてきたからではないか。
・算数の「〇〇」に躓きを抱えているのは、その「子」が「◇◇」という題材がクリアできていないからではないか。
・忘れ物を減らすため「〇〇」という約束をしたらよいのではないか。
・友達とのトラブルが最近増えてきている。「〇〇」が要因なのかも。
などなど
先生の基本的な所作である「みとり」が難しいのは、往々にして「先生の偏り」が色濃く紛れてしまうこと。
さらに、先生自身も「自分のみとりが偏っているよなー」と実感していないことも多い。
教育界あるあるの一つ、「先生が変わると子どもも変わる」という現象も、この「偏り」がかなり影響を与えているでしょう。
要するに、「先生がその子をどのようにみとり、反応しているかによって、結果的に子どもの姿が変わる」といった感じ。
もちろん、人間関係は互いに影響を与えていますから、先生→子どもだけで終わることなく、子ども→先生という流れもある。
そんなやりとりの中で「あれ?〇〇な姿もあるんだな…」とか「意外と…」なんて更新が起きる。
その連続性が、「みとり」であり、先生も子どもも、互いの「みとり」を更新し続ける中で、両者にとって落ち着くことができる「居場所」を見つける。
もちろん、永遠に反発し合い、顔を合わせる度(時には、顔を合わせていなくても)に一悶着も二悶着もある場合もあるでしょう。
互いに心地よい距離感を見つけられるとよいのですが、悶着ばかりあると、「あの人は理解できない!」となりがち。ただ、この「理解できなさ」という「みとり」の難しさは、自分自身の外界に対する「反応」がもたらしているのかもしれない。
極端な例ですが、「比較的、怒ると手を出しやすい」という特性がある子であっても、初対面の先生が穏やかに自己紹介したところで、手を出す可能性は低いでしょう。
しかし、その初対面の先生が、何かしらその子の気が進まないものを無理やり実行させようとしたり、先生側から受け入れ態勢のない態度を示したりしてしまうと、対象となったその子は、手を出すかもしれない。
人間は関係性の中に生きていますから、「相手が自分に対してどのような反応を示すかによって、その時の行動が決定される」のです。
話が大分逸れてしまいましたが、本題に戻ると、「先生は、子どもをどのようにみとっていくのか?」という話で、もっと言うと、「自分のみとりを過信しすぎるととんでもないことになるよ」という警鐘的なもの。
先ほども触れましたが、「みとり」は完全ではなく、「永遠に更新されていく」ものでありますから、常に「自分のみとりってズレてない?」という謙虚さが必要。
そんな謙虚さを阻み、子どもの実態とズレがちになってしまう「みとり」の3つの偏りを本記事で扱います。
「みとり」を阻む、3つの偏り
最初にネタバレすると、この3つの偏りは、『観察力の鍛え方』から取り上げています。本書では、「観察力」を磨くための注意点として挙げられている3つの障壁ですが、「子どもをみとる」という目的にもかなり関係しているよなーと思ったので取り上げさせていただきました。
Amazon観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか (SB新書)本書の著者である佐渡島さんは、「観察を阻むもののほとんど全ては、自分の中にある」と述べています。私も、「子どものみとりが実態とズレる原因は、その人の中にある」と感じてきました。
そんな「ズレたみとり」につながる3つの偏りを見ていきましょう。
①認知バイアス
「脳は、自分が見たいように社会を見ている」と言われるほど、「認知バイアス」は、非常に手強いもの。最大の手強さは、「自分の見方が偏っていることに自分では気づけないこと」でしょう。
脳は、人間にとって非常に大切な部位であり、その分、非常にたくさんの酸素を必要としています。そんな事情から、なるべく低燃費で働き続けようと、「思考の省エネ」をするのです。
例えば、「ある子が友達とけんかをした」という出来事があったとしましょう。そこから、先生の思考が始まります。
「そういえば、あの子、朝からイライラしていたな」
「朝からイライラしていたから、きっと家で何かあったに違いない」
とつながっているかどうか分からない自分の「みとり」とつなげてしまう。
最終的な結論は、完全に先生の予想なのですが、このように簡単に物語をつくりあげ、複雑なこの世界を分かりやすく解釈しようとする。
さらに、人間の特性として「結果には必ず原因があるはずだ」という前提から、「自分が納得する因果関係を創り上げる」というものもあります。
ぼくたちは、明確な答えを出せていないもやもやした状態に留まっていることがとても気持ちが悪くて耐え難い。
このような認知の特性は、「みとり」にとっては、時に邪魔者となるのです。
②感情
冒頭から余計な話ですが、先生がバーンアウト(燃え尽き)する最たる理由は、「感情労働」だからなんていわれます。
感情労働というのは、ざっくり「自分の感情を押し殺してでも相手を優先する仕事」といえるでしょう。
もちろん、大人と子どもの関係性であることを認識していますから、あーだこーだ言って自分の気持ちを伝えるという簡単な解決策ではなく、「あの子の特性に合わせた伝え方を…」と工夫されたコミュニケーションを取ることを先生たちは選択するでしょう。
その高次なコミュニケーションの中には、上手く伝わらない事や葛藤が生じる。「全ての悩みは人間関係から生じる」ように、大人同士の熟練されたコミュニケーションでもいざこざが生まれる訳ですから、ましてや経験値格差がある先生と子どもでは、すれ違いは大きいでしょう。
そんな”すれ違い”が、うまく解釈できれば武器ともなりましょうが、関係性が崩れてくると、感情一辺倒のやり取りになってしまう。
すると、客観的な「みとり」ではなく、普段から感じている”決めつけ”満載の「みとり」となってしまう可能性があります。
知っての通り、感情を抜きに目の前の事実を評価するということは、人間として非常に難しいのですが、感情を入れるとズレるよなーという認識は必要ですよね。
③コンテキスト(文脈)
コンテキストも、「みとり」の”決めつけ”につながっています。
例えば、「遅刻」という一般的には歓迎されない行動をした子どもがいたとしましょう。
先生としては、「時間を守る」という一般的な指導として、「時間を守るように」と言ってしまうかもしれません。しかし、「親御さんの体調が優れず、普段は親御さんが担っていた朝の支度を自分でしたから手間取ったとか、親御さんの体調が心配で本当は学校へ行きたくなかった」なんていう前段が明らかになると、かける言葉も変わってくるでしょう。
先生たちは、35人という子どもたちを抱え、目の前の子どもたちにとってよりよい環境を!と考えているため、ある子の行動の前後関係に目を向けることなく一般的な声掛けをしてしまうこともあり得ます。
しかし、一人の人間として子どもを認識し、その子がとっている行動にどのような前後関係があるのかという少し広い視点に立つと、同じ行動でも全く違った行動に見えてくることがあります。
35人の子どもをみとるというのは、脳のリソースを大幅に超えた尋常ではない能力が必要とされ、ほぼほぼ不可能でしょう。だからこそ、一人ひとりのコンテキストに意識を向けることは難しいのですが、このような偏りがあることを認識しておくことは非常に役にたちます。
性弱説
むかし、何かの媒体で「性弱説って考え方、ありますよね?」みたいな話題を聞いたことがあり、なるほど!と思い、ずっと心に残っていて、今回の話題にぴったりなので、ここに記しておきます。
うろ覚えの情報を自分なりに解釈すると、人間関係の中で、「あんな人だとは思わなかった!」とか、「そういう人には見えなかったんですけどね…」という言葉を聞くけど、話題とされている「その人」からしてみれば、周囲が驚いたのは勝手な話で、そんな意外な一面も私にとっては私であると。
むしろ、評価している周囲の側の人たちが、「その人」を一貫した存在に仕立て上げているから、自分の中になかった「その人像」が現れると不協和が生じて「意外~」となる。
そんな人間だからこそ、「ついついやっちゃうよね」という状況をつくらないという手立てが、その人の弱い面を発揮させないための手立てになるのでは?というのが学校的視点につながるのです。
例えば、学校でのあるある事例は、「流行りものが盗られてしまう」みたいな問題。手に入れるだけでかなりの労力を要するものを学校に持ってきた結果、「あれ?なくなっている…」というような場面。
もちろん、盗ったり隠したりした「その人」が悪いのですが、極端に反対側の視点をもつとしたら、「その人に対して盗ったり隠したくなる状況をつくってしまった」ともいえる。
盗ったり隠したりした子が、「レアものが目の前にあって周囲に誰も人がいない」という状況になってしまった結果、その子のパーソナリティとして保有していた”いじわるさ”が刺激されて事に及んでしまった。
逆に、目の前にレアなものがなかったり、ものがあったとしても、周囲に人がたくさんいる状況にいれば、そのような悪さは起きなかったかもしれない。
要するに、性弱説というのは、環境とかタイミングによって、人間の”わるい”部分を刺激してしまった結果、「わるい」と分かっていても起きてしまうこともあるのでは?という考え方によって、「人間を”わるい”方向へ導かないような状況づくりが必要なのでは」という論争だったのです。
人間は不完全で、理性はあれども、感情が膨張することによって、時に理性が仕事をしなくなってしまう。そんな”弱み”があることを前提として、考えようぜ!ってこと。
この考え方は、先生と子どもみたいな諸々の立場の差があることによって成立し得て、子ども同士で、「性弱説の立場で考えるとね…」といったところで通じませんが、教育現場では、そんな見方も必要かなとも思うのです。
まとめ
本記事では、学校現場、先生と子どもとの関係を構築していく上で、日々行われている「みとり」をテーマとして取り上げました。
もちろん、先生と子どもの関係だけでなく、社会の一員として活動している全人類にとって「みとり(観察)」という能力は、とても役立ちます。
ただ、意識しないと見誤ってしまうことがあるのが、「みとり」の難しさ。
時に、立ち止まり、自分の心身の状態に目を向けつつ、自分の偏りに思いを馳せることも「みとり」を磨く方法なのでしょう。



